1988年から1989年にかけて起きた「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」。
犯人・宮崎勤の逮捕と裁判は、社会に大きな衝撃を与えました。
しかし、事件の影には、崩壊していた家庭環境と、その後大きな影響を受けた家族の存在があります。
本記事では、宮崎勤の家族のその後に焦点を当て、その構成と事件が家族に及ぼした影響を、詳しく解説します。
宮崎勤の家族構成

宮崎勤の家族構成は、以下の通りです。
- 祖父、祖母
- 父親、母親
- 姉(1人)
- 宮崎勤本人(長男)
- 妹(2人)

一見すると一般的な家庭のように見えますが、内部には複雑な人間関係と問題が存在していました。
家庭環境の歪み


宮崎勤の家庭環境について解説します。
父は家庭内暴力、母は精神的余裕なし
父親は地域の有力者で、印刷会社経営やPTA会長を務めていました。
しかし、家庭内では暴力的な側面があり、母親との間には日常的な不和が絶えませんでした。
また、母親は、姑との関係が悪く、世間体を気にするばかり。
宮崎勤に十分な愛情を注ぐことができなかったとされています。
祖父の存在と喪失
祖父は地元の町会議員で、織物工場の経営者でもあり、宮崎勤を溺愛していた人物です。
女癖の悪さなど問題もあったものの、宮崎勤にとって精神的な支えでもありました。
その祖父が1988年5月、事件の直前に91歳で他界。
祖父の死をきっかけに、宮崎勤の精神的なバランスが崩れ、家族内でも孤立していきました。
宮崎勤の父親の最期
宮崎勤の父親のその後について解説します。
地元の名士から孤立へ
宮崎勤の父は、地域紙『秋川新聞』の社主であり、印刷会社「新五日市社」を経営。
PTAや消防団でも活躍する地元の名士でした。
しかし、息子の事件後、新聞は休刊。
地域社会からも距離を置かれるようになります。
自殺による幕引き
宮崎勤の事件から約5年後の1994年11月、宮崎勤の父は自宅近くの河原で自殺。
責任感や後悔、周囲からの批判が積み重なった結果とされています。


宮崎勤の母親と親族への波紋


宮崎勤の母親とその親族のその後について解説します。
離婚と再婚、精神的な限界
宮崎勤の母親は、事件後に父親と離婚。
宮崎勤の母親と姑との関係は険悪で、家庭内では孤立していました。
また、事件後には宮崎勤の遺体の受け取りを拒否するなど、精神的な限界も見て取れます。
親族にも社会的影響
母親の兄の子どもたちは、警察官や教師として働いていましたが、事件の影響により辞職。
家族だけでなく、親族全体にも波紋が広がったことが分かります。
宮崎勤の姉と妹たちの人生


宮崎勤には、姉と妹がいました。
宮崎勤の姉は婚約破棄
宮崎勤には、事件当時、結婚を控えた姉が1人いました。
しかし事件後、宮崎勤の姉の婚約は破棄。
世間からの風当たりや社会的なプレッシャーにより、結婚は白紙となりました。



宮崎勤の事件が社会的に極めて大きな衝撃を与えたため、「徹底的に身元を隠す生活」を選んだと考えられます。
妹たちは進路変更
他に2人の妹がいましたが、専門学校に通っていた1人は事件後に退学。
家族の一員であることが、彼女たちの将来を奪う結果となりました。
宮崎勤の家族のその後まとめ


この記事では、宮崎勤の家族のその後について解説しました。
宮崎勤の家族は、事件によって深刻な打撃を受けています。
この記事の内容をまとめると、以下のとおりです。
- 宮崎勤の家庭は、父の暴力や祖父の問題で複雑だった
- 祖父の死後、宮崎勤は精神的に孤立した
- 父親は事件から5年後に自殺
- 母親は離婚・再婚し、親族も辞職などの影響を受けた
- 姉は婚約破棄、妹は進学を断念
事件が起こしたのは、個人の犯罪だけではなく、家族・親族の人生をも大きく変えてしまうものでした。
家族という存在の影響力について、深く考えさせられます。