1988年から1989年にかけて日本社会を震撼させた「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」。
犯人は宮崎勤―
幼い命を奪い、遺族や社会に深い傷を残した史上最悪級の猟奇殺人犯です。
この記事では、宮崎勤は何をした?について、宮崎勤の犯行の概要から社会的影響、そして宮崎勤の最期までを解説します。
宮崎勤の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の概要

事件名と公式指定
正式名称は警察庁広域重要指定第117号事件。
警察庁が広域重要事件に指定したのは、埼玉県と東京都にまたがる連続殺人であり、社会的影響が極めて大きかったためです。
期間と場所
事件が発生したのは、1988年8月から1989年6月にかけての約10か月間。
主な現場は、埼玉県西部(入間市・飯能市・川越市)および東京都。

いずれも住宅街や子どもの生活圏が含まれていました。
被害者と年齢層
連続幼女誘拐殺人事件の犠牲となったのは、4歳から7歳までの女児4人。



短期間で複数の幼い命が奪われたことで、地域社会と全国に強い衝撃を与えました。
犯行の特徴と猟奇性
宮崎勤は、女児を誘拐後に殺害し、遺体切断・遺棄・性的暴行などの猟奇的行為を行いました。
さらに、
- 遺族に遺骨を郵送
- 新聞社へ犯行声明文を送付
など、世間を挑発する“劇場型犯罪”の側面もありました。
家宅捜索では、段ボール約170箱分に及ぶ約6500本のビデオテープや大量の性的嗜好に関する資料が押収。



犯人像に対するメディア報道が過熱しました。
犯行声明と偽名
宮崎は「今田勇子」という架空の女性名義で犯行声明を送りつけ、警察や世論を混乱させました。
声明文には犯行の詳細や遺族への挑発的な文言が含まれており、報道を通じて国民の恐怖を煽る結果となりました。
事件発覚と逮捕の経緯


1989年7月23日、東京都五日市町(現・あきる野市)で、少女に対するわいせつ行為の現行犯として宮崎勤が逮捕。
さらに、自供をもとに未発見だった被害者の遺体も発見。
事件の全容が明らかになりました。
犯行の異常性と社会への衝撃


宮崎勤による東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件は、日本社会に深い爪痕を残した事件です。
特に以下の点で、その異常性と衝撃度が際立っています。
残忍かつ異常な犯行手口
宮崎勤は、女児を誘拐後に殺害し、遺体を切断して山中や河川敷に遺棄。
一部の事件では、遺骨や歯を小包に入れて遺族宅に郵送し、挑発的なメッセージを添えるという常軌を逸した行動をとりました。
また、遺体に対する性的暴行も確認。
被害者が幼い子どもであったことから、その残虐さは社会に強烈な嫌悪と恐怖を与えました。



こうした一連の猟奇行為は、日本の犯罪史の中でも極めて特異で、海外メディアでも大きく報道されました。
不可解な供述と異様な人格
逮捕後の取り調べで宮崎は、犯行動機について明確な説明を避けたり、
「自分の中の別人格の仕業」
などと不可解な供述を繰り返しました。
一方で、犯行の詳細は驚くほど正確に語り、殺害時の感情を淡々と述べていたと言います。
複数の精神鑑定が行われ、最終的には「完全責任能力あり」と判断されましたが、
その精神構造は事件後も多くの議論を呼びました。
社会不安の拡大
- 被害者が4歳〜7歳の幼女であったこと
- そして犯行が短期間に立て続けに発生したこと
から、事件は全国的な不安を引き起こしました。
親たちは子どもを一人で外出させることを恐れ、地域では防犯パトロールや登下校の付き添いが急増しました。



また、「子どもが誘拐されたらどうなるのか」という現実的な恐怖が、家庭や学校にまで浸透しました。
メディアが生んだ偏見


事件報道では、宮崎勤がアニメや特撮、ホラー映像などの収集癖を持っていたことが大きく取り上げられました。
これをきっかけに「オタク」という言葉が社会的に広まりました。
同時に、アニメや同人文化、ビデオ収集といった趣味を持つ人々への偏見が急速に拡大しました。



この偏見は、その後のメディア報道や社会認識にも影響を与え、事件が単なる犯罪を超えた文化論争の火種となったのです。
宮崎勤逮捕から裁判までの流れ


宮崎勤の事件は、逮捕から死刑確定まで17年近くを要しました。
その過程では、犯行の残虐性や精神状態を巡って激しい法廷論争が行われています。
1989年7月23日:現行犯逮捕
東京都五日市町(現・あきる野市)で、少女に対するわいせつ行為の現行犯として宮崎勤を逮捕。
この逮捕は偶然の巡り合わせでした。
取り調べの中で東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件への関与を自供。
宮崎勤事件の全貌が明らかになっていきました。
1996年:論告求刑公判で死刑を求刑
逮捕から7年後、論告求刑公判が開かれ、検察側は4件の幼女誘拐殺人と死体損壊などの罪状を重視し、死刑を求刑。
1997年4月14日:東京地裁が死刑判決
東京地方裁判所は、宮崎勤に対し死刑判決を言い渡しました。
判決理由では
「犯行は極めて冷酷かつ残虐で、社会的影響も甚大」
とし、犯行当時の宮崎勤に完全な責任能力があったと認定しました。
2001年6月28日:東京高裁が控訴棄却
弁護側は一審判決を不服として控訴。
これにより、宮崎勤は一審の死刑判決が維持されました。
2006年1月17日:最高裁が上告棄却、死刑確定
最高裁判所は上告を棄却。
死刑判決が確定しました。
宮崎勤には複数回の精神鑑定が行われたものの、最終的には「完全責任能力あり」と判断。
刑の軽減は認められませんでした。
宮崎勤の最期
2008年6月17日:死刑執行
2008年6月17日、東京拘置所にて宮崎勤の死刑が執行されました。享年45歳。
執行命令を出したのは当時の鳩山邦夫法務大臣。


死刑確定からわずか約2年4か月後という、重大事件としては比較的短期間での執行でした。
死刑確定から執行までの背景
宮崎は死刑確定後も拘置所内で、書籍や新聞を読んで過ごしていました。
拘置所職員や面会者に対しても淡々とした態度を見せていたといいます。
また、宮崎勤は、犯行について謝罪や反省を明確に示すことはほとんどありませんでした。
事件の刑罰面での終結
この執行により、宮崎勤に対する刑罰は法的に完全に終了しました。
しかし、事件そのものが社会に残した爪痕は深く、
- メディア報道の在り方
- 性犯罪と精神鑑定の関係
- 死刑制度の是非
- など、多くの議論を残しました。
遺族の中には執行を受けて「ようやく一区切りがついた」と述べる人もいました。



一方で事件の記憶は風化させてはならないという声も根強くあります。
宮崎勤事件をもっと深く知るには?
宮崎勤事件についてさらに深く知りたい方には、以下の書籍が参考になります。
事件の全貌や背景、当時の取調べ記録、そして本人や関係者の証言を通して、多角的に理解を深められます。
宮崎勤事件: 塗り潰されたシナリオ
事件の経緯や裁判記録、報道の問題点などを丹念に追い、なぜ事件がこのような形で進行したのかを検証した一冊。
報道では語られなかった裏側に迫ります。
肉声 宮﨑勤 30年目の取調室
宮崎勤本人が取調べで語った肉声をもとに構成された記録集。
犯行動機や心理状態、供述の変遷などが生々しく伝わり、事件の理解に欠かせない資料です。
夢のなか、いまも 連続幼女殺害事件元被告の告白
元被告人が事件や自らの人生について振り返り、内面の葛藤や動機に触れた告白録。
被害者遺族や社会に与えた影響への認識も含まれており、事件後の姿を知ることができます。


宮崎勤は何をした?まとめ


この記事では、宮崎勤による「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」について、犯行の詳細、逮捕から裁判・死刑執行までの経緯、そして社会に与えた影響を解説しました。
宮崎勤は1988年から1989年にかけて4人の幼女を誘拐・殺害。
遺体切断や遺骨郵送など猟奇的な手口を用いた、日本犯罪史上でも特異かつ残虐な連続殺人犯です。
この記事のポイント
- 1988年〜1989年に発生した広域連続幼女誘拐殺人事件
- 被害者は4〜7歳の女児4人で、犯行は残虐かつ異常性が際立つ
- 逮捕のきっかけはわいせつ事件の現行犯
- 複数の精神鑑定を経ても「完全責任能力あり」と認定
- 1997年に死刑判決、2008年に死刑執行(享年45歳)
- 事件は「オタク」偏見や報道倫理、防犯意識、死刑制度の議論を引き起こした
宮崎勤事件は刑罰面では終結しました。
しかし、その凶悪性と社会的影響は今なお教訓として語り継がれるべき重大事件です。