2025年2月12日、日本を代表するデザイナー・彫刻家の五十嵐威暢さんが、札幌市内の病院で逝去されました。享年80歳。
北海道滝川市出身であり、晩年は札幌市に暮らしながら創作活動を続けていました。
この記事では、五十嵐威暢さんの人物像と数々の業績、そして後世に残る彼の足跡を振り返ります。
略歴とキャリア|世界を舞台に活躍したデザイナーから彫刻家へ
五十嵐威暢さんの生涯は、創造と探求の連続でした。北海道滝川市に生まれ、世界へ羽ばたいた彼の軌跡を振り返ります。
北海道滝川市に生まれ、東京へ
1944年、北海道滝川市で生まれた五十嵐さんは、幼少期を自然豊かな環境で過ごしました。
滝川第三小学校を卒業後、より広い世界を目指して東京へ転居します。
1968年に多摩美術大学デザイン科を卒業し、翌年にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院修士課程を修了しました。
グラフィックデザインで国際的評価を確立
1970年代に入り、五十嵐さんはグラフィックデザイナーとして国際的に活躍し始めます。
ニューヨーク近代美術館(MoMA)のカレンダーや、サントリー、明治乳業、カルピスなど著名企業のロゴデザインを手がけ、その独自の造形感覚が高く評価されました。
軸測投影法(アクソノメトリック)を活かした立体的なタイポグラフィは、彼の代表的なスタイルの一つです。
50歳で彫刻家へ転身、表現の幅を広げる
1994年、50歳を迎えた五十嵐さんは、彫刻家へと大きな転身を遂げます。
ロサンゼルスを拠点に制作を始め、立体作品を通してさらなる表現の探求を続けました。
2004年には日本へ帰国し、その後も精力的に創作活動を展開しました。
教育者としても後進を育成
2011年から2015年まで、多摩美術大学第9代学長を務めました。
コンピューターを活用したデザイン教育を推進し、次世代のクリエイター育成にも大きな貢献を果たしました。
代表作と社会貢献|多彩な表現と地域とのつながり
五十嵐さんは、都市空間から地域社会に至るまで、広範なフィールドで創作を行いました。
世界的なデザイン作品とロゴ制作
グラフィックデザイナー時代には、ニューヨーク近代美術館のカレンダーや、サントリー、明治乳業、カルピスといった企業ロゴを手がけ、視覚文化に大きな影響を与えました。
公共空間を彩った彫刻作品
札幌駅JRタワーパセオ地下広場「テルミヌスの森」や、滝川市一の坂西公園の巨大彫刻「Dragon Spine」など、公共空間を豊かにする数々の彫刻作品を制作しました。
彼の作品は、日常に溶け込みながらも強い存在感を放っています。
新十津川町「かぜのび」での地域活動
北海道新十津川町に設立したアトリエ兼ギャラリー「五十嵐威暢美術館 かぜのび」では、地域との連携を大切にしたアート活動を展開。
地元住民との交流を通じて、アートの裾野を広げました。
金沢工業大学「五十嵐威暢アーカイブ」の開設
晩年には、金沢工業大学に自らの作品や資料約5,000点を寄贈し、2023年に「五十嵐威暢アーカイブ」が開設されました。
これにより、後世への貴重な文化資産が受け継がれています。
創作スタイルと理念|自由で即興的なアートへの情熱
五十嵐さんの創作姿勢は、常に自由で柔軟でした。
「やり直しをしない」即興的制作スタイル
制作においては、「やり直しをしない」という即興的なスタイルを貫きました。
これは、素材との対話を重視し、その瞬間の直感を尊重する彼独自の哲学によるものです。
多様な素材への挑戦と、公共空間での表現
木、金属、テラコッタ、石、ステンドグラスなど、多様な素材を用いて制作を行い、特に公共空間を舞台とする作品に力を注ぎました。
素材の持つ表情を最大限に引き出す手法は、多くの鑑賞者に感動を与えています。
「失敗は神様からの贈り物」という哲学
五十嵐さんは「失敗は神様からの贈り物」と語り、失敗を恐れず、挑戦し続けることの大切さを後進にも伝えました。
その姿勢は、多くのクリエイターに影響を与えています。
まとめ|五十嵐威暢さんの創作は、時代と空間を超えて生き続ける
五十嵐威暢さんは、生涯を通じてデザインと彫刻の世界に革新をもたらし、多くの人々に感動を与え続けました。
この記事の内容をまとめると、以下のようになります。
- 北海道滝川市に生まれ、世界を舞台に活躍した
- グラフィックデザインで国際的な評価を確立
- 50歳で彫刻家に転身し、新たな表現を切り開いた
- 教育者として後進育成にも尽力した
- 地域社会との交流や公共空間でのアート活動を展開
- 素材への挑戦と自由な創作スタイルを貫いた
- 「失敗を恐れない」哲学を持ち続けた
五十嵐威暢さんの精神と作品は、これからも時代を超えて私たちの心に生き続けるでしょう。ぜひ、彼の軌跡に思いを馳せてみてください。